広島大学病院、講談社、株式会社ビーライズが共同開発した、「はたらく細胞VR」をご存知でしょうか。
これは、人気作品『はたらく細胞』のキャラクターや世界観を活用しながら、小児がん患者の子どもたちが、体内で起きている症状や治療をゲーム感覚で学べるコンテンツです。心身共に負担の大きながん治療に対し、前向きに乗り越えられるよう支援することを目指しています。
開発のきっかけとなった課題は?なぜVRというデバイスを採用したのか?どんな効果が期待できるのか?
そんな疑問を、本企画の発起人である広島大学病院の佐伯先生、そしてVR開発を担当した株式会社ビーライズの古本様に伺いました!

「なんでこんな苦しい治療をしなきゃいけないの?」そんな思いを少しでも解消したい
――まずは、佐伯先生のご専門と、普段どのようなお仕事をされているか教えていただけますか?
佐伯先生: 私は「小児外科」が専門で、主に小児がんの子どもたちの治療にあたっています。現在勤務している広島大学病院は、日本に15拠点ある「小児がん拠点病院」の一つとして、多くのお子さんの命を預かっています。
――今回、小児がんの子どもたちに向けたVRプロジェクトを立ち上げられたとのことですが、きっかけは何だったのでしょうか。
佐伯先生: 小児がんの治療は、非常に過酷です。その中で最も大きな問題だと感じていたのが、子どもたちが「なぜこんなに苦しい治療をしているのかわからない」という状況に置かれてしまうことでした。 子どもは「何がわからないのか」をうまく言葉にできません。そのため、理由もわからず辛い思いをし続け、支える親御さんもどう接していいか困ってしまう。こうした状況を打破するために、何とかして子どもたち自身に「小児がん」というものを理解してもらい、自分から治療に前向きになってほしいと考えたのが始まりです。
――そこで「VR」という手法を選ばれたのは、なぜですか?
佐伯先生: 実は、海外の病院ではすでにVRが医療現場で活用されています。特に小児医療において効果が高いという論文がいくつも出ていたんです。例えば、歯科治療中にVRを見せると、意識がそちらに集中して痛みを感じにくくなるといった実例や、パニック障害、自閉症の治療における「デジタルメディシン(デジタル薬)」としての活用も始まっていました。
私自身、2020年頃から医療教育におけるVRの研究をしており、コロナ禍で実習ができなくなった医学生向けに開発した「診察練習ソフト」で大きな手応えを得ていました。この経験から、「VRには医療の未来を変える力がある。それなら小児がんの子どもたちのための専用ソフトも作れるはずだ」と確信したんです。

――そのパートナーとして、アニメ作品の『はたらく細胞』を選ばれた理由を教えてください。
佐伯先生: 海外の先行事例では、単純に気を紛らわせるために既存のアニメを流しているものが多かったのですが、私はもっと踏み込んで「病気を理解し、一緒に戦う意志」を持てるものにしたかった。そうなったとき、がん細胞との戦いを描いた作品として、私の中で『はたらく細胞』以外の選択肢はありませんでした。私自身、この作品の大ファンで、漫画もアニメもすべてチェックしています。2023年に講談社さんとの面談が叶い、寄付募集を経て2026年3月に完成しました。
「この点滴は、ゲームで見たやつだ!」前向きな治療の手助けに
――制作にあたって、特にこだわったポイントはどこでしょうか?
佐伯先生: まず、医療現場で使うものですから「VR酔い」が起きないよう、技術面にはかなりこだわりました。また、アニメと同じ声優さんを起用できたことも大きいです。収録現場にも立ち会いましたが、キャラクターが命を吹き込まれた瞬間の感動は忘れられません。声優の方々からは、子どもたちへの温かい寄せ書きをいただきました。 あえて「制限時間」を設けたのもこだわりです。「もっとやりたい、まだ足りない」と思ってもらうことで、次への意欲に繋げたいと考えました。
――具体的に、このVRを体験することで、子どもたちにどのような変化が期待できるのでしょうか?
佐伯先生: 例えば、小児がん治療のメインとなる「点滴」です。何度も繰り返すうちに、点滴の袋を見るだけで「またあのきつい治療が始まるんだ」と、入る前から吐き気をもよおしてしまう子もいます。その苦しみを和らげたい。 VRを被り、白血球や赤血球たちと一緒に体内を巡ってがん細胞をやっつける。その途中で、空から抗がん剤が降ってきて、敵を弱らせてくれる。そんなプレイ画面を見ていれば、現実で点滴が始まったときに「あ、ゲームであの時に降ってきたやつだ! 今、がん細胞が弱ってチャンスなんだ!」と、治療をポジティブに捉え直せるようになります。そうなれば、治療へのモチベーションは劇的に変わるはずです。

無力感を感じる親御さんの心のケアにも。チームで小児がんに立ち向かう
――「理解する」ことが、恐怖を勇気に変えるのですね。そして、今回のプロジェクトでは「親御さんの気持ち」も大切にされていますね。
佐伯先生: はい。現在、小児がんの多くは治る病気になっています。しかし、親御さんにとっての精神的負担は計り知れません。子どもにがんのことを伝えられず、本人が知らないまま治療が始まるケースもあります。その結果、子どもは理由もわからないまま入院、そして辛い治療が始まる。すると親にも不信感が溜まっていき、雰囲気も悪くなってしまいます。
親御さんも含めて、「一緒に頑張ろうよ」とチームになっていかないと、子どもの治療はなかなか進みません。これまでは紙芝居や絵の告知方法もありましたが、なかなか伝わりづらかった。そこでこのVRを使って、アニメーションもあり、プレイもできるとなると、説明もできるし、「一緒に戦っていけばいいんだ」という気持ちになれる。画期的なものになると思っています。
――治療が始まってからも、親御さんの心の助けになりそうですね。
佐伯先生:そうなんです。自分の子どもが治療で苦しむ姿を見て、「自分は何もできていない」という無力感に襲われ、鬱々としてしまう親御さんは少なくありません。子どもに言えるのは「頑張ろう」という言葉だけで、それが余計に辛いという声も多く聞きます。
そこで、実際に、小児がんを治療中の6歳・8歳のお子さんにプレイしてもらったのですが、子どもたちが夢中になってがん細胞をやっつけている姿を見て、親御さんが本当に喜んでくださったんです。「治療中にこれがあったら、どんなに救われたか」と。 親御さんも、子どもがVRの中で戦うのを応援したり、一緒にクイズを解いたりしていました。治療中に子どもの笑顔を見られるだけでも、親御さんの心には大きな救いになる。そう実感しました。

難易度はあえて高めに。苦労して、一緒に乗り越える!
――脚本も佐伯先生が自ら執筆されたと伺いました。専門家としてのこだわりを教えてください。
佐伯先生: 基本的なストーリーは私が書き、VR制作のビーライズさんや講談社さんと何度もディスカッションを重ねて練り上げました。医療チームとしても、看護師やチャイルドライフスペシャリスト(CLS)など、現場のスタッフ全員でプレイしてチェックしました。 一番のこだわりは、あえて「難しくした」ことです。漢字も使うし、ふりがなはあっても専門用語をふんだんに入れました。「子ども騙し」みたいな、小学生向けに易しくしただけのものは絶対にやめようと決めていたんです。
――あえて難しくしたのは、どのような理由からですか?
佐伯先生: 子どもは背伸びをしたいものです。大人びたもの、本格的なものに挑戦したいという欲求がある。だから、クイズも大人でも7割ほどしか解けないような難問を用意しました。がん細胞も、一筋縄では倒せない強敵に設定しています。簡単に倒せたら、それは「がん」ではありません。一緒に苦労して、やっとの思いで乗り越える。その達成感こそが、現実の病気と戦う力になると信じているからです。
――制作を担当された古本さんは、この「難しさ」へのこだわりを聞いてどう思われましたか?
古本さん: 正直なところ、最初はターゲットを低年齢層に絞り、誰でも簡単にクリアできる内容を想定していました。しかし、佐伯先生の「熱い思い」を伺い、難易度を上げてストーリーに没入させる方向に舵を切りました。 実際にお子さんにプレイしていただくと、こちらが驚くほどストーリーを読み込み、大人でも迷うような問題をスラスラ正解していくんです。VRという没入感の高い環境と、素晴らしい声優陣の力が組み合わされば、子どもは想像以上の理解力を発揮できる。この発見は、私たちにとっても非常に大きな喜びでした。
――ビジュアル面、特に「体内環境」の再現度も素晴らしいですね。
佐伯先生: ビーライズさんの中に、ものすごい「作品愛」を持ったマニアがいるんじゃないかと感じました(笑)。背景や建物など、アニメの世界が完全に再現されているんですよ。
古本さん: 私たちも佐伯先生と同じくアニメや漫画が好きなメンバーが揃っています。大切なキャラクターをお借りしているという強い意識を持ち、背景の再現度には一切の妥協をせず、時間をかけて丁寧に作り込みました。お子様が「自分は本当に『はたらく細胞』の世界にいるんだ」と感じられる没入感こそが、治療への力になると考えたからです。

日本が誇るアニメ文化×デジタルメディシンを世界に発信していきたい
――現在はどのような段階にあり、今後はどう広がっていくのでしょうか。
佐伯先生: 広島大学病院では臨床研究の申請中ですが、安全性に問題がないことは確認できているので、希望のある病院にはすでに提供を開始しています。2026年5月からは、岡山大学の長谷井先生とのコラボレーションにより、全国30箇所の病院でプレイ可能になる予定です。
――最後に、これからの展望を聞かせてください。
佐伯先生: 将来的には、病気ごとに専用のVRができれば、と考えています。例えば、食事制限が厳しい潰瘍性大腸炎の子どもたちが、なぜ脂っこいものを控えるべきなのかを、VRを通じて自分の細胞の様子を見ることで納得して管理できるようになる。そんな未来を描いています。 VRというツールがあれば、専門家が少ない地方の病院でも、都心と同じレベルの「病気への理解」と「ケア」を提供できるようになります。日本が誇るアニメという文化を武器に、このようなデジタルメディシンを世界へ発信していきたいですね。
古本さん: 弊社としても、これまでの「教育」という枠を超えて、VRが医療現場でこれほど広く、深く貢献できるということを実感させていただきました。今後も「実際に手を動かして体験する」というVRならではの強みを活かし、より多くのキャラクターや作品とともに、子どもたちの力になれるコンテンツを作っていきたいと考えています。
『はたらく細胞VR』紹介動画
まとめ
取材を通じて最も印象的だったのは、このVRが「親子の絆」を繋ぎ止める架け橋になっている点です。病気に立ち向かうわが子に対し、何もできない無力感に苛まれる親御さんにとって、共に戦うための「共通言語」が生まれる意義は計り知れません。「デジタルメディシン」としてのVRが、いつの日か医療の当たり前となり、多くの子どもと家族に笑顔をもたらす未来がすぐそこまで来ていることを、強く実感するインタビューとなりました。